魏志倭人伝(22)

2012/04/04 Wed

魏志倭人伝(22)国王

(倭人伝 原文 伊都―4)
「有 千余戸 世 有王 」

(井案)

上記の原文から何が見えて来るのでしょうか。

済州島も6世紀までは独立した1つの海洋国家でした。

海女さんが漁をして男は家で子守だったそうです。

まさに海岸部の倭国の生活状態ですね。

(^ω^) 海岸部の女性は強いのです。生活力があります。

対馬海峡の対馬や壱岐や松浦も同じです。

博多湾の能古島や志賀島や
宗像市も同じ独立海洋国家だったでしょう。

この時代は各々海の民族が独自の航路や魚場を持っていて
力もそれなりに強かったのだと思います。


そこに内陸の邪馬壱国のような連合国が侵入してきたのでしょう。

(-_-;) 1寸先は闇、長いものには巻かれろだ

對海國(対馬)は1000余戸 

山険しいく、平野が少ないため・・・云々

一大国(壱岐)は3000余戸 

島ですが、当時では最大級の環濠都市があった。

末盧國(松浦)は4000余戸

松浦市から唐津市に至る広い地域。

伊都国などの海に面した国々は、どこにも属さない
海の民国家、または交易国家でしたが、
遺物からは一部女王国に属して行きます。


それは、邪馬壱国の勢力範囲だったことを示しています。

次の原文には、
「 世 有王 」

これは、「世」から代々王が居たと言っています。

伊都国には王の家系が続いていたのです。

ここの国だけがこの表現がなされています。

以上から伊都国は邪馬壱国にとって
格段と扱いが違っていたのではと思われてくるのです。


それは「大率」が派遣されている事があります。

今後 奈良時代もこの伊都国が防衛の要と成ってゆきます。
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(20)伊都国に向けて

2012/03/14 Wed

魏志倭人伝(20)
伊都国に向けて出発

(倭人伝 原文 伊都―3)
郡使 往来 常 所駐(井案)

この原文から何が分るのでしょうか。


唐津から東に鏡山があります。

この山の右手に向かえば、
佐賀県の弥生時代の環濠集落
「吉野ヶ里遺跡」に向かえます。

左手に向かえば、
福岡県の「伊都国」に行けるのです。

両者の距離はビックリする程の違いがありません。

(?_?) ドチラガ チカイカ


では何故使者は左手の伊都国に向かったのでしょうか、

その一つに、邪馬壱国の郡使が
伊都国に常駐していたのです。

これが先の原文から分ります。

この郡使とは何でしょうか。

それは魏志倭人伝の後半中に書かれています。

(^ω^) ウラヅケ ハ ゲンブンデ


「女王國より以北には、
特に一大率を置き、
諸國を検察せしむ。
諸國これを畏憚(イタン)す。
常に伊都國に治す。」


とあります。

これは、女王國より北側には、
特に「一大率」という組織を置きました。

これは、諸國の監視役のような仕事をしていたようです。

諸國これを畏憚す。

この「畏憚・いたん」とは、おそれはばかる事です。

「はばかり」とはトイレの事です。

よってトイレが怖いのか??

以前、次男坊がこれでして、
小さい時ですが、自分がトイレに入る時には、
妹をトイレの前に立たせていたそうです。

しかし、これとは違いますね(笑う)

(-_-;) (^^ゞ アセ


「はばかり」と「はばかる」は違います。

この「一大率」という組織が常に
伊都國に常設されていたのです。

次の文で中国と比較しております。


(^з^) ナルホド


続いて原文には

「於国中有如刺使」

これは

「國中において刺史の 如きあり。」

中国では刺史のような役割です。

と書かれています。

よって一大率は邪馬壱国の
直接指令所が監視所だったのでしょう。

(^_^)/ セイカイ


よって同盟国はこの一大率に敬意を払っていたのです。

また、女王国はこの一大率の在る伊都国よりも

南に在ることも分ります。

更に原文は一大率の説明が続きます。

(20)末盧國人たちの暮らし。

2012/02/23 Thu

魏志倭人伝(20)末盧國人たちの暮らし。

(倭人伝 原文 末盧國)
山海居 草木茂盛行不見前人 
好捕魚鰒 水無深浅 皆沈没取之


(読み下し文)
浜山海に居る。
草木茂盛して行くに前人を見ず。
好んで魚ふくを捕うるに、
水、深浅と無く、
皆沈没して之を取る。

(ひん・はまの異字体)
(ふく・あわび・ふぐの類)



(井案)
伊都国に早く行きたくて、
末盧國の人の暮らしを飛ばしていました。
(^0^)/ハハハ・・・
失礼致しました。

末盧國の人たちは浜や山や海に住んでいます。

前に紹介しました通り、
多くはリアス式のような海岸線です。

リアス式とは地盤沈下で
海面が山裾まで入ってきた状態の事です。

よって平野が少なく、入り江が多くあります。

漁場も港としても良い地形です。

辺りは草木の繁茂が多くて、
前を歩いている人が見えない?

なんて、チョッとオーバーは表現ですが、
浜の部分が少なく、直ぐに山が駆け上がっているからです。

この様な表現になったのでしょうか。

(^ω^)

末盧國の人たちは農業よりも漁業が中心のようですね。

皆さん素潜りが上手だったようです。

魚や鮑を捕るのですが、
文章からは深い海の所でも平気で
潜って捕っているようですね。



素潜りは原始的な漁法ですが、
確実に獲物が捕らえられます。

また前述の刺青に戻りますが、
海の猛禽魚の威嚇も考えられます。

現在の日本でも海女さんが居られます。

韓国でも南の地方では、
今でも素潜り漁を続けている所があるそうです。

(´Д`)

素潜りは良いのですが、
水の中など高圧な所で高圧の空気を吸っていると
潜水夫病に罹ります。

(*_*)

この病気はどのような者かと言いますと、
水圧の為に高圧の空気を吸っていると
多くの窒素が人の血液の中に溶け込みます。

高圧の時は良いのですが、
浮上してきて大気の1気圧になると、
まるで、炭酸水のように泡が吹き出てきます。

これが血管の中で起こるのです。
するとこの泡が毛細血管に詰まりますので、
血行障害が起きるのです。

終動脈である脳では最悪です。


判断力の低下や意識がモウロウとなったり致します。

ギリシャの海綿取りの猟師の多くも
この症状に悩まされていると聞いています。

私は潜らないのに常に起きています。

魏志倭人伝(19)大陸からの玄関口

2012/02/12 Sun

大陸からの玄関口

(倭人伝・原文)
東南 陸行 五百里 至 伊都國 


(井案)

末盧國から東南で陸行すると直ぐの所に、
右手に鏡山を見ながら行きます。

この鏡山は別名
「領布振山」(ひれふりやま)と呼ばれています。

海抜が284mで丘のようですが、

海岸から見上げると大きく感じ、
この山の頂上付近からの眺めは、

眼下に広がる、虹の松原や唐津市街地及び
唐津湾が一望できる絶好のポイントがあります。

mail.jpg

そして遥か壱岐の島陰(一大国)も見えます。

宝くじが当たることで有名な
宝当神社がある高島も近くに見えます。

鏡山の山頂には「松浦佐用姫」の物語があります。

百済の救援にむかう軍船を整えている間に、
青年武将大伴狭手彦と佐用姫が恋愛関係になり、
朝鮮半島に向かう船団に向かって別れを惜しんだ話です。
(T_T)
今でも大きな神社があり、
お参りの人も多いそうです。

唐津の地は弥生時代から奈良時代まで、
大陸に向かう玄関口だったのです。
(^^ゞ

他の港では考えられなかったのでしょうか?

今は福岡市の博多湾には港がありますが、
この末盧國で上陸している事は、
福岡までの海路は未だ開かれていなかったのでしょうか?

元時代の蒙古襲来は直接福岡に上陸して、

大宰府近くまで責め込んで来ています。

それよりも福岡湾の中央に浮かんでいる
志賀島(しかのしま)や能古島(のこのしま)には
この時は独立した水軍の勢力が
あったのではと思われるのです。


壱岐の水運と志賀島の水運が別に存在していたのです。

この理由は伊都国の後半で説明します。

その勢力の為に、倭人達は
鏡山の下を伊都国に向かって歩いたのでしょう。

この先には城山に当たりますが、
ここから右手の内陸に入れば、
佐賀県の吉野ヶ里遺跡に直行できます。


左手の海岸線に沿って約25キロ行けば
伊都国の平野に着きます。


海岸線と言っても小さいが山の稜線を
何本か超えて行かなければなりません。


この伊都国に向かった理由は
次の節の原文で紹介します。

(18)伊都国の不思議

2012/01/08 Sun

魏志倭人伝(18)伊都国の不思議

昨日は七草粥の日でした。

これも日本の行事ですから、
子供達の前では一応は行っています。

メモリーが見当たらず、探していました(笑う)

倭人伝に入りたいと思います。

(原文)
東南陸行五百里 至伊都國 
官曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚 
有千余戸 世有王 
皆統属女王國 
郡使往来常所駐


(読み下し文)
東南のかた陸行五百里にして、

伊都國に至る。

官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。

千余戸有り。

世王有る、皆女王國に統属す。

郡の使が往来して常に駐る所なり。


(井案)


末盧國(まつろ)から東南に陸路を500里行きます。

やっと伊都(いと)国が現われました。

この上記の古文を見て、
血が踊りませんでしたか?

私は「ゾクゾク」とした感じを覚えました。

上記の短い文ですが、色々な事が含まれています。

この伊都国は不思議な事ばかりが起きています。

伊都国とは奈良時代は怡土(いと)と呼ばれ、
私が前に居た頃は前原(まえばる)となっていました。


最近は合併で糸島市になっています。

ここには近くに海が有るのです。

では何故に、末盧國から船ではなく、
上陸して、山道を陸行したのでしょうか。


この陸路が不思議と思われませんか?

どの道を通ったのかも未知です。

また、ここで「女王国に統属する。」
の言葉が初めて出ました。

よって、伊都国からが女王国の実効支配に当たる国
ということなのでしょうか。

では、今までの對海國(対馬) 

一大国(壱岐) 末盧國(松浦

はどの様な国の存在だったのでしょうかが不思議です。

伊都国は女王国の前線基地だったのでしょうか?

この伊都国には歴代の王が存在しているのです。

1国ですから、王も存在しているのと違います。

さらに王の他に長官が居るのです。


名前は爾支(にき)、
副官も二人居ます。
名前は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)です。


また、ここに帯方郡の使節か役人が常に来ています。

邪馬壱国の重要な玄関口だったのでしょうね。

なのに、この国には1000余戸しかありません。
對海國(対馬)は1000余戸 
一大国(壱岐)は3000余家 
末盧國(松浦)は4000余戸 
次の奴国はなんと2万余戸

に比べて伊都国の住民は戸数が少な過ぎるいのではないのか?


さらに女性の巨大な王墓(国宝)の存在です。

色々と不思議な事が起きています。

これらの不思議について、今後進めてゆきます。

しかし、当分は伊都国ですので、
次の奴國へ行くのは時間が掛かりそうです。


なにせ足が短いのに徒歩ですから。

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(井案)

Author:(井案)
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