巾着田

2011/10/09 Sun

連休中日に飯能方面に家族とドライブをしてみました。

飯能の先に巾着田を言う場所があります。

高麗川(こまがわ)の蛇行により、
その形が巾着(きんちゃく)の形に似ていることから、
巾着田(きんちゃくだ)と呼ばれています。

今のこの場所には田圃はありません。
巾着
秋には曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の群生地になっています。

巾着7
この彼岸花(曼珠沙華)は真っ赤な花が咲きます。

昔、おばあさんから家に持ち帰れば火事になると嫌われていた花です。

これは毒がある植物です。

しかし、この花は中国からの株が日本全国に広がったのです。

畑のモグラ、ネズミ除けとされて、田の畦(あぜ)に植えられて
それで株は順次植えられて増えました。

よって、日本の株は同一種類の物とされています。

これが、嫌われるのは不思議な花です。

巾着3
10月の連休には既に少し遅いのですが、
遅咲きの花が真っ赤な絨毯のように咲いていました。

時期が遅かったので露店商も少し少なかったですが、
好天気と暖かい気候で人出もあり、
出展場所は活気が溢れていました。

巾着4
私達もアイスクリームや饅頭や高麗鍋などを買って食べましたが、
それぞれが高いのに驚きます。


本来のドライブの目的は高麗神社に行って見たかったのです。
高麗4
古代朝鮮では、新羅、日本に関係のある百済と
その北に位置に当る満州の南部に高句麗の3つの国が在りました。

663年白村江の戦いで友好国百済が滅亡、
668年に高句麗も滅びました。

この前後から高句麗からは倭国に多くの民が亡命してきます。

その一環に高句麗から666年に高麗王若光が渡来しました。

これは1799人を連れての亡命王子だったのですね。

これから716年に武蔵の国に高麗郡が置かれ、
高句麗の技術でこの地を開墾されたのです。

高麗3
この神社は出世開運の神社だそうで、政治家も参詣しています。

この隣の聖天院の麓に高麗王若光の墓があります。

高麗2
晴天院の伽藍からの眺めは素晴らしい光景でした。

往復で60キロを走りました。

高麗がこんなに近いとはビックリでした。

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コメント

Secret

巾着田

巾着田は有名でよくTVにでてきますが、
高麗神社の話は初めて聞きました。
高句麗が滅ぼされて、国王共々、1800人近い人が亡命して来たとは…
それを高麗群として、受け入れた日本もその頃はおおらかだったのでしょうか?
そこから、関東平野での米作りが一層盛んになったのかもしれません。
古代の話はロマンチックさと雄大さに溢れています。

白い月の風さんへ

この時代は大和朝廷はどうも朝鮮と密接な関係が有ったのです。
少し前には朝鮮の南に壬那(日本府)がありました。
よって百済が白村江で多くの百済人を救助したり、
百済王を九州に匿ったりしています。
その後関東にも多くの高麗人を入植させています。
しかし両国とも朝鮮半島での再興は失敗しています。
きっと当時は同じ民族だったのでしょうね。
魏志倭人伝時代後も朝鮮から銅鏡を輸入しています。
文化的にも朝鮮は高かったのでしょうね。
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(井案)

Author:(井案)
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