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(17)唐津くんち

2012/01/03 Tue

魏志倭人伝(17)唐津くんち

明けましておめでとうございます。

2012年 辰年 ですね。
唐津くんちのドラゴン1
唐津くんちで、今年の干支のドラゴンです。

今年は私の運気が好転する年だそうです。

色々な出来事が起きそうな予感がします。

気が早いですが、今年の暮れには、
マヤ歴の大晦日です。

マヤ歴の新世紀にも立ち会えるのも良いですね。

今回も昨年の続きの唐津くんちです。

「唐津くんち」というお祭りは
11月の3日間に渡り行われます。

この最初の夕刻に夜の部がある。

それを待ち構えて見物に出掛ける。

まだ薄明るい5時頃に唐津に着くと、
すでに夜店が開店しており、
掛け声が夜祭りの雰囲気を盛り上げている。

 曳山は7時半の出発を前にお囃子をしながら
「エンヤーエンヤー」と掛け声と共に
次々と展示場から呉服町付近に集まって来ます。

曳山にはライトを燈し、台の脇に乗ってお囃子をする。

このお囃子は祭りの雰囲気を盛り上げます。

 この山車によっては全体もしくは
上の一部分が揺れている。

その上に人が1~2人乗っていて、
調子を取っているのがある。

曳山は意外に高いので、
さぞや乗り手は怖いのではないかと思うのですが・・・

唐津くんちかぶと
写真は昼の部の兜の山車で頭に人が乗っています。

山車によっては、
乗っている人の顔が緊張しているのが伝わって来ます。

この曳山はきっと若い人の
肝試しも兼ねているのかとも思われます。

曳山の魅力はスピードを上げて
狭い町角を曲がる所で、
迫ってきた山車が急に方向を変える。

これは緊迫感があり、見応えもあります。

次の日の山車引きは日中行われます。

山車の間には子供達が
大きな樽を2人で持って回っています。

初めは何をする子供達かなと思っていると、
見物客が、
その樽の中に小銭をバラバラと投げ入れるのです。

これは始めて見た光景です。

しかも小銭ですが一握りです。

私も早速、小銭入れをひっくり返し、
全部を握り、その樽に入れてみる・・・
バチャ、バチヤーという音と共に、
樽の中で小銭が飛び散ります。

これは気持ちが良いですねー
こんな気持ちが良いお賽銭は初めてでした。

魏志倭人伝(16)唐津の祭り

2011/12/28 Wed

唐津のお祭り。

魏志倭人伝も末盧國で泊まったままでした。

もう末盧國の発音も忘れられたと思います。

まつろ」と言いますが、

現在の松浦地区ではと思われますが、

この松浦を地元の人は「まつら」と発音します。

この松浦地区の東側に唐津があります。

この唐津の地名から中国に唐に通じる物があります。

古代はここから中国に渡る海路が開けていたのです。



邪馬壱国の時代から少し後でも、
この港から今の朝鮮(百済国)に軍船を派遣する港でした。


この唐津も祭りが多い所で、
11月2日から3日間繰り広げられる
「唐津くんち」が最大のお祭りであります。


夏の時期は夜に幕洗いという行事が行われており
松浦川をお囃ししながら提灯船で上下する。


これは本番の「くんち」の出発点に当たる行事です。

 唐津くんちでは曳山が引かれます。

これを一堂に集めた展示場には
14台の曳山が所狭しと並べてある。


曳山は文化財のために展示場には冷房が効き
保護の為に照明も落されているために、
微かに見える曳山は異様に大きく何か不気味に見えてくる。


娘「真っ赤な金魚がいるよ

妻「あれは鯛だよ」

娘「だったら、あれは真っ赤過ぎるよ」

そこで私がウンチクを
「鯛は元々が薄黒いんだよ、

あの桜色は餌にカニとかエビなど
甲殻類を食べて赤く発色するのだ」

ここまで言っても鯛が黒いなんて変ですと
2人の疑惑の眼差しが刺さってくる。

ここは家族の信頼を得る為には、
直ぐの補足説明をする

「だから養殖の鯛は薄黒いから出荷前に
カニやエビと豪華な食事を与えるのだ」

ここまでは良かったのだが、
私の癖でこの後で、ちょっと冗談のつもりで

「だからあの鯛もカニの食べ過ぎで
赤く発色し過ぎたのだよハハハ…」

と言うと、今までの事実がみんな嘘に聞こえてくるのか、
また始まったと言う顔をして2人ともよそを向いてしまう。


クンチ曳山集合1
曳山が集合した場面、くんち案内から借用

この金魚もどきの鯛の曳山は弘化2年(1845年)の制作で
形が可愛いのか子供達には大人気だそうで、

患者さんのお孫さんも「私の金魚~」と言っているそうです。
ちなみに男の子達はドラゴンの曳山が人気だそうだ。


唐津には唐津焼の陶器展示場もあり、

特に香蘭社の青

深川製磁の赤は素晴らしいので、

展示場を訪れて、ゆっくり鑑賞してもらいたい。

(15)唐津城

2011/11/03 Thu

唐津城

昼過ぎのまだ夏の太陽が容赦なく降りそそいでいる中を、
唐津城の長い階段を登っていると

「暑いね~、エレベーターに乗れば良かったね~ッ」
と後ろから声が聞こえてくる。

(^_^;)

そんな言葉にも私は動揺せずに

「良い景色だな~、ほら町が段々と遠くまで見えてくるよ」

と自分にも暑さから気をはぐらしながら、
汗を掻きかき石の階段を一歩一歩と登っている。

段々と足の筋肉が張ってくるのが分る。

この城の登り階段が長いのと急なのは閉口する。

有料のエレベーターが入口の少し奥から本丸内に
直接行けるという、大きな案内板が入口に有ったのだ。


それを見ていたからの発言であったが、
もう、ここまで来れば戻る訳にも行かない。

階段の途中で、大手門から天主に向かう階段を登る途中に
まるで緑の天井が現れた様な大きな老藤棚が現れる。


見事な藤の葉が肌を刺すような夏の日光を遮り、
ほど良い風もあり、一抹の涼しさを与えてくれる。

自然とここで足を止めて一服する。

少し休まないと、新しい運動靴が
私の親指の足に噛みついている。

KaratsuJyo_1B唐津城
 唐津城案内から借用しました。詳しくは唐津城アクセスして下さい。

この二の曲輪からみた虹の松原も見事なもので、
緑の松林と白い海岸線が曲線を描いて
延々と彼方に続いている。


ここで足の疲れと共に少し息切れと汗を沈めていると、
連れの二人は風景を背景に写真撮影に興じている。


今まで根を吐いていたのに、この元気な姿には驚く。

この元気があれば益々長生きできそうである。

この二の曲輪からは五層の天守閣の美しい姿を
間近に仰ぎ見ることができる。

この天守を回り込むようにして、
本丸に登る西の門に通じる石段が奥にあるが、

心優しい私は同伴者の疲れを考慮して、
近道に当たる一の口門から本丸に入る。

この天守は博物館となっており、
色々な文化財が展示されてある。

ここを何とか5階まで登りきると、
最高部には展望台になっている。


ここからの360度の視界からは
唐津の町から海に浮かぶ島々が手に取るように見える。

Karatsu_2B唐津城
 唐津城案内から借用

実に絶景で、ここの海の色も空の色も透通り美しく感じられる。

今から1900年前のこの海岸には壱岐島から、
手漕ぎ舟で、大陸の青銅器を持って、
米や食料を買いに来ていたのでしょう。


天守閣では頬に当たる風も心地よく、
空気も美味しく感じられる。

唐津城は虹の松原を羽根にした姿から
舞鶴城とも言われ美しい城である。

元々名護屋城の天守や解体材料を活用して作られたそうだ。

この松浦川は河口手前が大きく広がり、湖のようになっている。


河川を変更したり大きな堀を掘ったりの大工事を行って、
北は玄界灘で東は松浦川に西と南は堀で囲んだ
まるで水に囲まれたお城が出来上がっている。

よって水城といわれる由縁だそうです。

末盧國(3)

2011/10/27 Thu

魏志倭人伝(14)末盧國(3)

玄界灘の呼子付近の海岸線に
松浦地区が広く分布していました。

松浦とは以前は松浦水軍で有名です。

松浦水軍は呼子付近のリアス式海岸を牛耳っていたのです。


現在も付近一帯には松浦の姓が非常に多く、
今もこの名前に誇りを持っておられます。


この地方では松浦(まつうら)を
なんと「まつら」と発音しています。


これが末盧「まつろ」と松浦「まつら」と比べると、
非常に発音が似ていますね。

言語的には「ro」の語尾が「ra」によく変化いたします。

この事から「まつろ」から「まつら」は成り立つと思います。



呼子から海岸沿いに東に行くと、唐津に着くので、
壱岐(一大国)から千余里の距離もうなずけるのです。


ここに港があり、松浦川を挟んで虹の松原が続いていて、
松浦川の上流は平野が広がっています。


近くには日本では最初であろうと言われている、
田の跡が発掘されています。


一大国は米を求めて、海路を作っているので、
この松浦からは多くの米を調達できると思います。


最後に末盧国の長官の名前がありません。

この不思議についての考察です。


末盧国の全部は女王国に属していないで、
海運で成り立つ連合国家ではなかったかと思います。

辛うじて末盧国の東側の一部が女王国に随っていたでしょう。


根拠は前述した剣先広形銅矛の出土が、
この呼子唐津湾付近から西にしか出ていないからです。


剣先広形銅矛以外にもう一つの出土品は、
石斧(せきふ)です。


原始人を描いた絵に、
獣の皮を纏った原始人が必ず手にしていた石斧です。

石斧ウィキペディア

え!唯の石斧と思われますが、

この玄武岩製の石斧は当時では非常に便利だったのです。


たとえば木を切り出したり、船を作る時に大木の中をくり抜いたりと、
弥生時代には必要品になっているのです。


この一帯から出土する石斧の約80パーセントの物は、
福岡の今津の双子山からの玄武岩なのです。

今も山には石斧の原型が落ちています。

この石斧の分布地域も
前述の銅矛と同じ地帯に重なるのです。

(^_^)

これを伊都博物館の案内を見たときは鳥肌が立ちました。

この鋳型も石斧も後の伊都国で述べたいと思います。


現在、この松浦川の先端には白亜の唐津城が建っていますので、
次回はこの唐津城に案内します。

魏志倭人伝(13)動物と武器(3)

2011/10/23 Sun

13.動物と武器(3)

(参考・読み下し文)
兵には矛・盾・木弓を用う。
木弓は下を短く上を長くし、
竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。
有無する所、タン耳・朱崖と同じ。


(井案)
前述したように、古代人も戦は嫌です。

刀を前にして、相手と対峙すれば、恐怖が出てきます。

人も動物も恐怖はストレスになるのは当然です。


多くの動物も雌を争う戦いの前には、
自分の身体の大きさや角の大きさを比べて張り合います。

これは直接の戦いを避ける行為とされています。

よって、古代の人も同じです。

古代は戦争の前に、敵に対して備えをしています。

それは「まじない」をすることです。

この頃は神、邪や鬼が非常に身近に居たのです。

相手に向かった山や丘に武器を埋めるのです。


今の考えでは、埋めたら意味が無いように思えますが、
当時は相手に対しての呪いが有ったと信じられていていたのでしょう。


出雲の国も今の大和に向かった山に、剣を多数埋めていました。


同じ例で、

この北部九州では剣先広形銅矛が用いられているようです。


銅矛
剣先広形銅矛(借用)

この剣先広形銅矛の出土する地域は
今の対馬、壱岐
から松浦郡の東半分、福岡県、佐賀県、大分県
四国の愛媛県、土佐県等から多く出土しています。

この剣先広形銅矛は実際の戦闘には使われないです

使ったとしても、刃がありませんので、
せいぜい相手にコブを作る程度です。


では何故この剣先広形銅矛が出土するのでしょうか、
それは魔除けに使われていると言われています。


自分達の領域の端に銅矛を埋まるなり、
吊るしたり。置いておく事で魔除けにしていたそうです。


弥生時代後期に朝鮮半島から伝播したものを、
古代日本で生産されていったのです。


その他に銅刀、銅鐸を入れて3つありました。

この3種類の神器として、
其々の文化圏が独自に重用していたのでしょう。


これら其々の境界は重なる部分もありますが、
大きな文化圏は3つ在ったと考えられます。


問題はこの魔除けの銅矛を生産された場所です。

この場所から銅矛に巫女の呪いをして、
を入れられていたのでしょう、
生産された銅矛は、支配地や支援国に配られたのです。


この鋳型の多くは、現在の前原(まえばる)、
以前の名前は怡土(いと)という場所から多く出土するのです。

よって、この怡土国は邪馬壱国には重要な国になります。

プロフィール

(井案)

Author:(井案)
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東洋医学をもっと身近に感じてもらいたいので、
このブログを開きました。
質問を気軽にして頂ければを思います。

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